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 道連れの開催に寄せての手紙

僕のやっているバンドは結成10周年を迎えた。その10年の間、自主イベントと言われるものを僕達は殆ど開催していない。これはメンバーや偶然の所為ではなく、「他人を誘って何かをする」という行為を、申し訳なく、居た堪れなく思う僕自身の所為である。

幼少期に体験したいじめや家庭環境の影響で、僕は人前に出るのが苦手になった。苦手苦手と言いつつも、バンドを組むという事、ライブをするという事、どれもが自分で望んだことであり、結果的に「自分が望んだことをする」ということ自体が「無理をする」ということと同義になってしまった。
無理をすること自体を美学としてきた僕は、当然の様に10年目にして声帯を壊し、幼少期にいじめで指を開放骨折した以来の外科手術をすることになった。

無理をしながら生きることは地獄だ。「こんな地獄に一人で居るなんてできるかよ、」という気持ちと比例して「こんな地獄に一緒に居てくれなんて誘える訳がない」と、バンドを組むと言う矛盾と親友の隣で、常にそんな事ばかり考えて居た。

無理がたたり声帯が壊れた時、「ここが僕の歌の寿命だったのか」と妙に納得してしまった。本当に僕が一人だったら、僕はここで歌うことを辞めて居ただろう。
ある時、うちのギターのガースーが「声が出なくなっても篠くんとはバンドをやります」とTwitterに投稿していた。優しさなのかも我儘なのかも解らないその言葉に、理由も解らず涙が出た。

この「道連れ」という仰々しいタイトルは、バイト先のライブハウスで「たまには君もまともにブッキングの仕事をしろ」という空気の中、苦し紛れに僕がバンドとして組んだ数少ないイベントだった。
イベントに誘えない僕が無理をしてでもイベントに誘いたいバンドは誰か、そんなことを考えながら、僕は当時の道連れ初日に、Hakubiに出てもらおうと思った。

片桐ちゃんの存在は、彼女がHakubi を組むよりもっと前、「それでも世界が続くならの歌をカヴァーしてくれている子がいるよ」と当時のレコード会社の人から話を聞き、声だけでなく、その体重の乗った言葉の重さに衝撃を受けた。
その後、彼女はHakubiを結成し、偶然にも大阪で共演する機会ができた、その日、片桐ちゃんと一緒にコンビニへ歩きながら彼女の僕のバンドに対する想い聞いた。名古屋で僕のバンドのメンバーの手品を嬉しそうに見ているHakubiの姿、京都で「また手品やろうよ」とステージで叫んだ片桐ちゃんを見て、なんて飾らない人なんだと思った。当時のHakubiのマネージャーに誘われ嵐の夜に東京で一緒にスタジオに入ったこともある。そうして僕が誘った「道連れ」の初日、彼女は言葉にできないからと手紙をくれた。そこには彼女の音楽への葛藤が書かれていた。暫くして、彼女達はメジャーデビューし、「極・粉塵爆発ツアー」というツアーの千葉LOOK編に誘ってもらった。だが、コロナ禍の影響で、その再会の機会はなくなってしまった。

千葉出身の僕は、生まれて初めて出演したライブハウスが千葉LOOKだった。
ほぼ不登校だった高校時代、父親が居ない僕にとって(居ないのだから想像でしかないのだが)千葉LOOK店長のサイトウさんは生まれて初めて関わる大人の男の人で、僕にとって父親の様な存在だった。彼が思慮深さと反比例するほど強烈に破天荒な人間だったこともあり、大きなカルチャーショックを受けたのを覚えている。

僕のバンドはドラマーが脱退し不在であり、そのことが僕が音楽を辞める理由の一つというマイナスのモチベーションになっていた。ある日のライブ後、サポートドラマーとして叩いてくれていた只野うとちゃんに、サイトウさんが「本当はバンドにサポートなんてないから。今日ライブしたらメンバーもサポートもない、お前のバンドだぞ。って言うかお前このバンド入りたくないの?入りたいなら言えよ。」と言っていた。ワンマンの打ち上げで、偶然その隣の席だった僕とガースーは「これは聞いてはいけない、野暮だ」と言う空気になり、ただでさえ打ち上げが苦手で下戸の僕はガースーと2人で息を殺してウーロン茶を飲んでいた。

そんなサイトウさんの無茶振りのお陰で、その後、うとちゃんからメンバー加入の話になった。あの日のサイトウさんの一言がなければ、今頃人生は変わっていたかもしれない。そして、メンバーが見つかった人見知りの僕達のバンドは「メンバーを迎えたし、誘われるライブするだけじゃなく、なあなあにせず、改めて正式に活動再開しよう」と言う話になった。そして、恩人のサイトウさんに感謝を伝える為にファイナルを千葉LOOKで開催した「只野うとちゃん加入記念ワンマンツアー」当日、コロナ禍の影響でサイトウさんが来れなくなった。

「僕はこの世界を許さない」「歌えなくなるまで歌う、その後なんてどうでもいい。」そう思っていた僕が、声帯を手術してまで音楽を続けるのなら、その前に果たしておきたい約束が僕には3つあった。
一つは、千葉LOOKのサイトウ店長にうとちゃん加入をワンマンで報告すること。もう一つは、Hakubiともう一度、再会すること。

片桐ちゃんもサイトウさんも、絶対にあの日のことを覚えていてくれている、僕にはその確信があった。そして、それが居た堪れなかった。きっと、待っているだけじゃ真綿で首を絞められる様にゆっくりと後悔しながら死んでいくのだろう。ほとんどの場合、待っていても誰も何もしてくれないことを知っている。「あの時ああすればよかった」なんて後悔は予測できる程にし過ぎてしまい、最早ただの予定調和だ。

そんな僕を嘲笑うかの様に、未曾有の危機に瀕した世界では、多くのスポーツ選手やミュージシャンが「僕らが勇気を与えたい」と発信している。僕には、まるで自らが「与える側の人間」だと信じている様だった。
それに限らず、僕は元来、意図的に人を救おうとする音楽や作品が苦手だった。その意図が伝わってくると身構えてしまう。感動したことがない。もしも仮に、僕が「与える側」で、君が「与えられる側」だとするなら、そんなものは僕は好きではない。そう、これは正しいとか間違いの話ではない、ただの好き嫌いの話だ。僕は「音楽で誰かを救う」とか「伝える」とか「勇気を与える」とか、そんな傲慢なことを考えたくはなかった。ただただ、そういう考え方が好きではないのだ。

僕は、音楽だけではなく、全ての表現は、聴いた人や受け取った人の解釈で形を変えると思っている。聴いてくれた人間の数だけ、人生の数だけ、その音楽や言葉が存在すると言ってもいい。

もしも君が音楽に救われたのなら、その言葉を受け取り、自分で解釈した君自身が、自分で自分を救ったんだと僕は思う。

僕じゃない、あいつじゃない、君が君を救ったんだろう、と僕は言いたい。

良かった事だけ誰かのおかげにしなくていい、悪かった事だけ自分の所為にしなくていい。そういう内省は美しい考え方だと思う反面、極端に手柄は全部を他人のもの、全部が自分の所為にしてしまったら、自分が嫌いになって当たり前だ。死にたくもなるだろう。

だから僕の音楽は、誰も救わなくていいと思う、意味がなくていいと思う。
少なくとも僕はそうやって生きていきたい。

そして、君がライブに来てくれて、君に会った時に、自分は無力なんだと苦しむ君に、生きる意味がないと泣く君に、そんなのなくても生きていいんじゃないの知らんけど、と僕は言いたい。

本当はライブに来て欲しいと心底思う。
本当は一人は嫌だ、メンバーにも君にも、一緒にいてほしい。
だけど、君にも僕と同じ様に君の人生があり、痛みがあり、距離や生活があり、僕は僕にその価値が見出せず、僕はライブをすることすらも気が引けてしまうのだ。

それでも僕が君に一緒に居てほしいと頼むなら、それは只の道連れだ。「道連れになって欲しい」と打った瞬間、申し訳なさと共に、叶わないかもしれない期待で、胸が苦しくなった。
あれから10年、僕はまだこの世界ことは許せていない。どんなに綺麗事を書いても、結局僕は、メンバーとHakubiとサイトウさんと、これを読んでいる君を、道連れにする為にこのライブを決めたのだ。

相変わらず、僕には救う気がない、与えるなんて傲慢だと思う。

それでも、
意味のない筈の僕の音楽に、
意味はない筈の僕の人生に、
君との出会いに、たった2本のライブに、
君が意味を見つけてくれるかもしれない。

僕にとって、君との出会いこそが音楽である。
僕はまだそんなことを期待している。


文:篠塚将行